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  • 執筆者の写真石井 力

おすすめの本を紹介しあう広場 ⑥

北米にお住まいの方から寄稿がありました。いろいろあったでしょうにお元気そうで何よりです。触発されて私も本を二冊。

    「60歳のトリセツ」黒川伊保子、扶桑社新書

    「人はなぜ傷つくのか」秋田巌、講談社選書メチエ

  

ではまず「60歳のトリセツ」から、惹かれたところを・・


「あなたにしか見つけられないものに出逢って!」



私たちはみんな、たかだか100年ほどの地球旅を楽しむためにやって来た旅人なのに違いない。あなたなら、この地球で出会った小さな魂に「世間一般の生き方をしなさい」と言うだろうか。私なら「あなたにしか見つけられないもの、あなただから見つけられるものに、どうか出逢って。あなたが出逢う苦しみも、悲しみも、切なさも、すべてあなたのためのドラマだから」と言うだろう。




私はだから私自身にそう言い聞かせているのである。「世間」に納得してもらうために生きてるわけじゃない。裸の心でこの世の真実に触れること。痛くても、悲しくても、他人の目にどう映ろうと、関係ない。私の目にこの世がどう映るかが重要だ、と。




「脳は失敗をしたがってる」


惑う脳を鍛えるには、あまたの失敗が必要不可欠である。実は失敗は脳にとって最高のエクササイスなのである。失敗をして痛い思いをすると、脳はその晩、眠っているあいだに、失敗に使った神経回路に、電流が流れにくくなるよう、書き換えをする。つまり、失敗を重ねると、この電流が流れにくい場所が増える。失敗をしないと、ヒトは勘も働かず、センスは悪いし、思いやりは育たないし、人間が小さくなってしまうし、迷いと惑いの人生を行くことになる。





なので、失敗を確実に脳の進化につなげるための三箇条を記しておきます。


1.失敗を他人のせいにしない

  他人のせにすると、脳が失敗モードにならないのである。だから眠っていても何も起こ

らない。まったく反省しないのと同じ。失敗を潔く認めて胸を痛めること、脳に多少の

ショック電流が流れることが不可欠である。

2. 過去の失敗をくよくよ言わない

せっかく失敗に使われた神経回路を、電流が流れにくくしたのに、翌日もくよくよ言っ

ていたら、脳はそこに電流を流して記憶を新たにする。結果、電流が流れやすくなる。

つまりくよくよ言うと、失敗に使われていた回路が生き返ってしまうのだ。

3.未来の失敗をぐずぐず言わない。

過去の失敗さえ、口にしたら危ないのに、未来のまだ起こってもいない失敗をぐずぐず

言うなんて、愚の骨頂である。「負けそう」「どうせ失敗する」「ダメに決まってる」

なんて言葉、言った時点で失敗回路が元気にゲートを開き、負の未来を引き寄せる。


長く生きること、たくさん泣くこと、転んで傷ついて立ち上がること、それだけが脳を成熟させる、と著者は言います。



では次に「人はなぜ傷つくのか」


人はなぜ傷つくのか。それは人が人となっていくためである。人が人になるためには、「傷」が必要である。

人間はホモ・サピエンス(考えるヒト)と称されたり、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)と称されたりもするが、より本質的には、人の人たるゆえんは「傷」にある。個性化(=自己実現、あるいは心的成熟)の観点から見れば、「傷」こそが、必要不可欠な要素に見える。

人は生きていれば必ず傷つき、苦しむ。時によっては数十年以上にもわたり。この「傷」とは何か、いきなり結論を言えばそれは「神との契約」である。人が人になるための「傷」の契約においては、「神」あるいは「天」からの契約書が突然、眼前にふりそそぐ。大きな傷を受けたその瞬間にである。


そこに自らの名を署名できるかどうか。署名しなくとも人生は成り立ちはする。しかし自らの署名が加わるとき、人は苦しみつつも神との契約の元に生きることが可能となる。そして「神」・「天」の与えた試練を全存在で引き受ける時、長い苦闘のプロセスの中で芽生える、「傷と共に生きる存在」へと向かう。その先にあるのが「傷を生きる自己」あるいは「傷を生きる英雄」である。なぜ、英雄か。それはそのプロセスのなかで自ずから生じる、あるいはえぐり出される「異能」と共に生きるとき、おのずと英雄になるからだ、あるいはそうならざるを得ない。


・・・「半署名」のような状態で過ごす人も多いだろう。もちろんそれでも人は人となる。

だがキッチリと署名してしまえば、多くの場合「異能」が与えられる。しかしその人の人生は苦しいものとなる。と同時に自負あるいは時に超越感をさえ伴う、壮絶なる可能性が開けてくる。そして傷が生きぬかれたとき、初めて傷の何たるかがわかる。神の意志・天の意思が初めて感じ取られるようになる。

人はどうして傷つくか、それは神と共に生きるためである。苦しくとも歩みを止めずにいると、自分にしか可能でない生き方へと導かれる。

何だかよくわからないところもありますが、どうも、失敗したり傷ついたりしたとき、それを隠したりせず、正面からそれに向き合うとき、脳あるいは心の成熟が得られるようです。

私にも小さな小さな傷があります。舌の半分がない、舌癌を患い、切除してしまった。なので上手く喋れない、うまく発音できない。でもこれを恥じたりせず、少しずつでもきれいに発音出来るように訓練していけば、やがてこれが、私の個性になる、そうなると良いと思ってます。


S43年(経済卒)平田洋


追伸:

町田立教会のホームページに、このようなコーナーがあることに感謝しています。

このブログには特定の主人公がいません。あるとき、ふっと誰かが登場し、主人公となって自分の意見を述べ、終わったらスッと退場する、しばらくしてまた別の誰かが登場し、主人公として想いの丈を述べ、終わったらまたスッと退場する。立教という学び舎を共有したもの同士であれば、分かってくれる人がきっといるはず、と思って・・。

でもこのコーナーの運営は大変でしょうね。誰かが登場するまで、じっと待たねばならない。この間何もしなければ、このホームページ自体が立ち枯れてしまうかもしれない、手入れが欠かせません。だからなのか時々フワフワっとした記事が載る時もあるけど、これはもう愛嬌です。「失敗し傷つきながら生きてる人間」が運営してるな、と微笑ましくなります。町田立教会ホームページの「個性」ですね。 

ご苦労様です。


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