短歌が好きです。
短歌は五七五七七の音で作る詩で、日本の古い時代からあります。万葉集はおよそ西暦740年頃から編纂された
日本の最古の詞華集ですが、詩そのものは編纂が始まる以前からすでに膨大な量が作られていました。ただ当時の
日本には文字が無かったので残っていません。中国から文字が伝わり、その文字の音を借りて詩を表現するように
なり、やっと歌が残るようになったのだそうです。
天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ 柿本人麻呂
沫雪のほどろほどろに降りしけば平城の京し思ほゆるかも 柿本人麻呂
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかねぬる 藤原敏行
もの思えば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる 和泉式部
願はくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃 西行
真砂なす数なき星の其中に吾に向かひて光る星あり 子規
短歌は年寄りの文芸、暗い、と言われていたとき、軽やかな口語表現で、これをいともたやすく打ち破った
のが俵万智さんなんだそうです。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立相模原高校 俵万智
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海 俵万智
令和五年の「歌会始」の選歌から二つ
つくるでもできるでもなくそこにゐたあなたをわたしは友とよんでる 岩田真治
友の呼ぶ僕のあだ名はわるくない他のやつには呼ばせないけど 小宮山碧生(中2)
短歌があるのだから長歌というのもあります。五七、五七、・・・、五七七とつづき、最後に返歌として
五七五七七の短歌がついてます。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思はゆ
何処より 来たりしものそ
眼交に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ
返歌
銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも 山上臣憶良
美智子上皇后さまのお作りになった長歌があります。
昭和55年2月23日の浩宮様の加冠の儀がとどこおりなく終わって、お作りになった長歌です。
いのち得て かの如月の 夕しも この世に生れし
みどりごの 二十年を経て 今ここに 初に冠る
浅黄なる 童の服に 童かむる 空頂黒幘
そのかざし 解き放たれて 新たなる 黒き冠
頂に しかとし置かれ 白き懸緒 冠を降り
若き頬 伝ひつたひて 顎の下 堅く結ばれ
その白き 懸緒の余り 音さやに さやに絶たれぬ
はたとせを 過ぎし日となし 幼日を 過去とは為して
心ただに 清らに明かく この日より たどり歩まむ
御祖みな 歩み給ひし 真直ぐなる 大きなる道
成年の 皇子とし生くる この道に今し 立たす吾子 はや
返歌
音さやに懸尾截られし子の立てばはろけく遠しかの如月は
読むと何だか胸が一杯になってしまいますね。
短歌と長歌・旋頭歌などをあわせて和歌といいます。漢詩に対して日本固有の詩歌という意味です。
ところで、琉歌という歌があります。沖縄や奄美、宮古島・八重山の諸島に伝承される叙情短詩型で八八八六音の
三十音で構成されます。私はこの歌の存在を佐藤優氏の著作か知りました。
恩納村で催される「琉歌大賞」受賞の歌のなかから・・・
恋路語らたる 故郷の白浜や この歳なてをても 名残立ちゆさ 伊藝峯子
悲しみと苦難 乗り越えて生きた しわしわの笑顔 おばあの強さ 山城伊織
部活後の海辺 立ち寄りて見れば 果てしなく続く 僕の未来 宮平智晴
明仁上皇様も天皇のころ琉歌を作られています。
摩文仁
ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて
上皇様が沖縄に想いをお寄せになっていたことが分かります。
私のメモ帳から・・
観覧車回れよ回れ想い出は君には一日我には一生 栗木京子
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
立つ瀬無き寄る辺なき日のお父さんは二丁目角の書肆にこそをれ 島田修三
夫より呼び捨てらるるは嫌ひなりまして<おい>とか<おまへ>とかなぞ 松平盟子
退くことももはやならざる風のなか鳥ながされて森越えゆけり 志垣澄幸
老ふたり互いに空気となり合ひて有るには忘れ無きを思わず 窪田空穂
生きてゆくとことんまでを生き抜いてそれから先は君に任せる 河野裕子
ことさらに目くじら立てることもなし「名もなき家事」は生きる営み 鈴木雅子
もう箸を握れぬ父の擦り切れた箸は静かな夢をみている もりもとみち
母であることを終えたる母とゐてぬるいカレーを向きあいて食む 岡本恵一
ああ父と同じ身長の弟の頼りなきことわかめのごとし 小池ひろみ
どこかの国の飢ゑた子の目がだいきらい十五の家出少女は吐き捨つ 朝倉修
日本列島あはれ余震にゆらぐたび幾千万の喪の灯さゆるぐ 長谷川櫂
マツチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司
S43経済・経済 平田 洋
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