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執筆者の写真石井 力

野球部にお詫びのメッセージがありましたが‥

更新日:2023年7月24日

下のコラムをホームぺージに投稿されたOGから たまたまnews letterの記事を読んでいたら 自身の書いたコラムに大変失礼があった とのメッセージが届きました。当初は削除を希望なさっておりましたが 当時の在校生の素直な気持ち、野球部現役・OBにしてみたらお怒りになるかも知れないけれども広い心で許して下さいますよ とお話して掲載継続となりました。

立教はとても清々しい学校だと改めて感じたところです。(石井:記 )



2021.9月 news letter33号掲載のコラム



野球そして立教へ



野球を本格的に始めたのは信州片田舎の松川中学からだ。 4番、ピッチャー、キャプテン、負け知らずで臨んだ3年生の時、小木曽 正勝君がエースとして率いる飯田西中学と初戦で対戦。お互いノーヒットノ ーランで投げ合ったが、最終回に私がヒット1本を許して敗退、初めて悔し涙を流した。現在、埼玉県富士見市で小児科医院を営む小木曽君とは県立飯田高校野球班で一緒になり、生涯の友となった。高校ではキャプテンを務め、3年生の春に南信大会で優勝。県ベスト4となり、北信越大会まで進んだ。

夏の県大会は初戦で強豪、松商学園高校と対戦し、延長15回の末に勝った。 全国紙に「松商、初戦敗退」の見出しで掲載された。ベスト8まで行ったが、 その年の甲子園出場校となる須坂園芸高校との試合が最後となった。

春も夏も私は本気で甲子園に行く気でいた。選手個々の技量は十分にあ ると思えたからだ。たりなかったのは「絶対に甲子園に行くんだ」というチーム一丸となった強い意志である。みんなの思いをひとつにできなかったのが悔やまれる。野球では全く無名校の球児だった私が立教大に進んだのは、六大学という一流の世界を知りたいという思いと、当時の入部者のほとんどが抱いてい た「長嶋茂雄さん(元巨人軍監督)の後輩になりたい」という気持ちからだ。だが、その厳しさは想像の域をはるかに超えていた。 新座市にある合宿所「智徳寮」で、6畳の部屋に上級生と下級生の2人で布団を並べて寝起きし、午前中に池袋の校舎で授業を受ける以外は、朝5時に起床して夜12時過ぎに就寝するまで野球漬けの日々。 ボールを握る前に、グラウンド30周(約10㎞)競争など過酷なメニューをこなす。「(スポーツ推薦の ある他校とは違い)学力だけで入学してきたお前たちがやっている野球は学生野球本来の姿であり、素晴 らしい。だが、勝たなければ世間は認めてくれない。勝つためには日本一練習するしかない」。当時の野球部長、野口定男先生(文学部教授)の口癖だ。まだ鉄拳制裁も日常茶飯の時代。やめたいと思わない日はな かったが、神宮で投げたい一心で踏みとどまった。2年生春から3年生にかけて右ヒジ痛に泣かされたた め、初めて神宮マウンドに立ったのは4年生の春、対早稲田戦でリリーフ登板した。よほど嬉しかったの だろう、負け投手になったのに、当時のアルバムの添え書きには「おふくろ見てくれ晴れ姿。俺にもや っとできたぞと、叫んだあの日の夢枕には、死んだおやじの笑い顔」とある。ただ公式記録はたったその 一敗のみ。思い描いた活躍はできなかったが、神宮の大観衆の前で3試合投げられたことは、我が人生の誇りであり、悔いなどまったくない。野球部訓の一つ「人間は終わりに完成すべからずの存在なり。されど完成に向かいて一歩たりとも前進せしめんとする過程にこそ人生はあり」は、自分の中で今でも生きている教えだ。 全員でその気になりさえすれば甲子園に行けたはずだという私の思いは、今の仕事にも通じる。創設メン バーの一人として40年前から運営に携わってきた多摩丘陵病院は、現在病床数316、外来1日約400 人、救急車を年間3000台近く受入れるまでとなった。この4月から近隣に199床の一般急性期病院の建設にも着手した。これからも「患者さん、職員に愛される病院にするんだ」が口癖の理事長のもと、その思いをスタッフ全員で共有してもらうことが初老の私に与えられた人生最後のミッションだと考えている。





2023.4月 ホームぺージ掲載のコラム


体育会と体育会系は違います (再掲)


昨日の陸上競技部の記事を読んで感じ入りましたので投稿させていただきます。たしかスポーツ推薦入学を停止したのはS47年ドラフト1位で巨人に入団した横山忠夫投手がセレクション時代の最後だったと記憶しています。 私の学生時代の活動は「スポーツプレスの発行」でしたから神宮球場は勿論 できる限り多くの競技を取材させていただきました。 当時の体育会は49部 ローラーホッケー部 モーターボート水上スキー部などもあって さすがは立教と感激した記憶があります。 神宮球場では辛い思い出ばかり 3年の秋は東大に敗れ 書いた見出しは「どこまで続くぬかるぞ!」 くやしくてヤケクソで書いたものでしたが編集長はそのまま採用し 号外のように学内で配ったのです 勿論学校からの支援もなく ひたすら立教通りのお店を回って集めた広告収入 その結果が「ぬかるみ」許せないのは応援団や数少ない応援席が 精一杯の声援を送っているのに敗戦後の野球部が笑って帰っていたことです。彼らが死ぬほど練習していることは知っていましたが セレクションがないことを負けの理由にしてはほしくはありませんでした。 ほどなく城ヶ島で体育会のキャプテン・マネージャー会議が1泊2日で行われましたが 例年欠席だった野球部のキャプテンも出席し49部のリーダーが顔を揃えました。 お酒も飲まず どうしたら立教のスポーツを復活させることができるのか 日付がかわるまで議論していたのです。 ケンブリッジ オックスフォード 京大のアメフト 医者や弁護士をめざす逸材がレギュラーを張っているではないか 上から言われたことを考えなしに追従していては勝てない 選手が頭を使って新歓やって本気で人材を集める 学内にも応援したい空気をつくる 学生部に働きかける 4丁目に神輿を出す(・・?‥ 体育会は真面目でハートは熱い!大酒飲んで単細胞的で to follow one blindly いわゆる体育会系で はありません。 城ヶ島の冷たい風に吹かれながら 彼らの議論を思い出し 私は思わず泣いてしまったのです。 2023年春のリーグ戦 法政に負けて早稲田にもニッコロ(連敗)で敗れてしまいました。 立教が苦しい時 つらい時 私たちは「St. Paul’s will shine tonight」を歌って励まし合い 応援しました。



過去のnews letterは検索機能(search)にnews letter Vol .33などと号数を入れるとダウンロードした後出てまいります。


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